ヨガに恋したあなたへ送るレッスン。
3話目は”眼差し”について。 ”囁き”のお話で声には外なる声と内なる声があるとお話しましたように、眼差しにも外なる物理的な視線と内なる視線があります。
内なる声が好きな恋人や嫌いな上司についてあれこれ呟くとき、同時にあの人やあいつが脳内の視界にイメージとして浮かびます。 じつはブツクサ考えるのに先だってそれらイメージは浮かんでいます。光は音より速いですから。 好きな人に逢った翌日はご飯食べてても仕事しててもあの人の顔がちらちらと頭に浮かぶはずです。 先に述べたように考えに準じてそんな印象が浮かぶというより絶え間なく浮かぶイメージに日がな考えと感情が引っぱり回されて生きます。
前回紹介したマントラプラクティス以前にそのようなイメージをコントロールするとさらに思考や感情は制御しやすくなります。
それが観想=ヴィジュアライゼーションです。
仏画でもシヴァ像でも三代目ソウルブラザーズの写真でも良いので眼前において全体のシルエットから細部まで細かく観察し記憶します。 眼をつぶり脳内にその姿を想起しまた眼をあけて見直しまた眼をつぶりと繰り返します。 そして今度は眼をつぶってリピートするイメージを眼をあけて見える光景にそのイメージを重ねます。 最初は時間を決めたセッションのなかで練習します。愛犬を躾けるように。 やがて今度は愛犬を外に連れ出すように、日常生活においてそのイメージを光景に重ねます。 習熟するにつれ起きてるあいだずっと。さらにマスターすると夢のなかでも。
苦手な上司の姿に好きな三代目ソウルブラザーズのメンバーの姿が重なったときには、あなたの修行=恋は成就したと言えるでしょう。 実は観ることは絶え間ない考え事と判断のノイズからあらかじめ色づけされた見ることに貶められています。 僕が出会ったラコタインディアンのシャーマンはそれを”白人はバッファローを見る事がない”と表現しました。 外部の影響でも歪められた記憶のリピートでもなく我々の内の空性のエネルギーそのものでイメージを立ち上げたとき、その実在しないが存在しないこともない真の在り様に私達は気づくでしょう。
観想の修行へのアドヴァイスとして1800年代に前世のパトゥル=リンポチェによって書かれたテキストにはその最重要なポイントとして本尊を実在するものとしてイメージしないこと、と述べられています。
実在と非実在という極端にしばられた私達にはそこらへんが大変難しいところですが観想のプラクティスが生活に浸透するとフィルターを通さない真の有り様への視線が磨かれていくでしょう。 そのような観想修行の完成としては日常の全ての時間において観想の対象が想起されるようになるといいます。
そうなるとあなたは三代目魂兄弟や韓流スターまたはシバ神や仏陀から一時も離れないようになるでしょう。 しかし本当はあなたがそれら本尊と離れないのではなく表面上の思考が固定されることであなたの意識が本当のあなたの恋人と一つになるのです。
ではヨガへの恋による本当のあなたの恋の対象とは誰なのでしょう? それはこのお話のまとめに繋がる話として次回。 これまでは全てそのための助走となるまえおきでした。 では次回核心に迫る本題へ。
つづく
