ヨガに恋する人のための愛の指南書その4は息吹。
即ち呼吸について。 呼吸とは吸って吐くことですが吸うのが先なのか吐くのが先なのか?
あらゆる活動においては一見吸うという行動が先にあるように感じられますがヨガ的または意識の本質論においては吐くことにポイントがあるように思われます。
ヨガ修行を真の意味で成就した人とはどのような人でしょう?
道徳的に善に生き隣人を助け菜食主義で社会の変革に精力的な人でしょうか?
差し出された物はなんでも食し、特に意識の高い社会的運動に関わるわけでもなく、静かに笑みを浮かべて自分の役回りである仕事を淡々とこなす人でしょうか?
僕は後者こそが隠れた聖者である可能性が高いと思います。
いにしえのインドの聖人シャンカラチャリアの聖典”ウ”ィベーカチュダマニ”には人間の意識状態の内の上の下と中の上を共に善人と示してあります。 では上の上である最上は?というと”放棄”とあります。 これは投げやりという意味ではなく事象に執着がなく全てを受け入れるという意味だと思います。
社会活動家には理想と裏腹に強い自意識と現状への不満があります。 世界の有り様をそのままに受け入れ与えられた仕事をこなす人にこそ自意識=エゴを放棄した生き方がみられます。
前者はいつも気張って呼吸して血圧も高いでしょう。後者は常に意識を捧げるように促されるように息を吐かされ、吐いた分だけ自動的に息を吸ってるでしょう。
呼吸法は無数の方法がありますがその大きな要点はこのように意識的に吸う呼吸から吐く呼吸を強める(という能動的な感覚もないまでに無意識に)こと。
それは生きることから生かされることへの意識の転換でもあります。 身体的ハタヨガにおいては呼吸によりプラーナを取り込むという考えがありますが、僕はこの感覚と概念が好きになれません。
気功やレイキをやる方々がもつ見えないエネルギーという概念もそのようなプラーナ論に派生すると思われますが、同時にそのような感覚が”パワースポットで良い気を貰う”といった感覚にも通じるように思います。
しかしそれは私という個が良いものをゲットしたり悪いものに触れるたりするという自己を中心とした善悪二元の世界を肉体として生きるという感覚とともに我々を個という牢獄に閉じ込めるだけだと思います。
そこで、肉体としての個を生かす呼吸を使って個の壁をぶち壊す呼吸法があるので紹介します。
トンレンという呼吸または瞑想法です。 心身の状態として可哀想な人や嫌いな人などを頭に描きます。 その人の病気の原因や性格の負の部分の根本をありありとイメージします。
ヘドロや澱や汚れの固まりのように。 そして息を大きく吸いながら、そのような負を全て自分が受け持とうという決意とともに全て吸い取ることを感じます。 吸ったら息を止めて体の芯までそれらを吸収したら体内で浄化して、もともと自らの善行や修行で培っているとイメージする自分の良い部分をイメージし、それを全て相手に捧げると決意して全て吐き切り捧げます。惜しみなく全て。
きっと最初は躊躇するでしょう。自分が病気になるかも。自分が負の部分だらけの影を背負うかも。 だけど受け取るのです。よくよく考えるとなんて可哀想な人だろうと思いを巡らせて。(この時点でとても強い慈悲の瞑想の実践にもなっています。) どうなってしまうかわからないからこそやってみて下さい。きっと素晴らしい結果を経験するでしょう(と、期待するのは本末転倒ですが)。
最初は嫌いな人はイメージするのに抵抗あるなら恋人の体の不調の原因等を想像することから始めても良いでしょう。
ラマナマハルシは呼吸に関するサーダナには二種あると言います。
一つが前述した呼吸法などのプラナヤーマで、もう一つは呼吸を見つめることです。これは止と言われるシャマタ瞑想にも繋がるもので集中力とマインドの安定を産みます。
そして以前の回でも述べたマントラとヴィジュアライゼーションとの全てをここに融合し日常のなかで実践すれば世界がヨガシャラに、出会う人全てがグルに、そして行動の全てがサーダナに変換されていくでしょう。 これこそがヨガ修行の完成かもしれません。
Just do it.
つづく

1970年刀鍛冶の末裔として生まれる。
96年セントマーチン美術学校大学院生修士課程修了(ファッション、ウィメンズウェアーデザイン)
翌年ロンドンコレクションデビュー。タケオキクチのディレクター等を経て現在はビスポークテーラー。
元アシュタンギ、チベット仏教ニンマ派とゲルク派の各々の師に師事。
サーファー。