さてこれで終わりです。
しかしこれまでの各章は全てこの章のための序章に過ぎず、実際その内容は方便であることを目的とした嘘っぱちです。
これまでずっとヨガに恋するという表現を用いてきましたが、本当はこの表現が嫌いで仕方ありません。 何故なら皆さんはヨガに恋してると思ってますが、ヨガ自体がある種の恋です。
つまり恋に恋するという中学生のように青臭い状態なわけです。
ではヨガ自体が恋ならその真の対象は何なのか?
それをお伝えするためにこれまでの全ての章を費やしてきました。
答を言ってしまいますがあなたの恋の相手とは本当のあなた自身です。
ヨガレッスン後のシャバアーサナで、部活後のシャワーの後にふと解放されたような気持ちのとき、それら清々しいとも形容される気持ちのときにあなたが経験してるのは本来のあなた自身です。 でもあなた自身とはあなたが思うような鏡に写るあなたではありません。
あなた自身とはそんな脳内のイメージの身体と一体視された客体的なあなたではなければ、そんな姿を認識する主体としてのあなたでもありません。 そんな見る自分と見られる自分という分裂状態の絵が描かれたキャンバス。またはそんな映像が映し出されるスクリーン。そのように像の背景の後ろにある空間。 その空間こそがあなた自身です。
しかしその空間には中心もなければ外縁もありません。そのような無限の空間。
それこそがあなた自身です。
そう、あなたとは無限なのです。
そんな無限に触れるからその方法であるヨガや瞑想にあなたは恋しますが、そのように無限で捕らえようがないからこそ、その方法こそを目的だと勘違いしてしまうのです。
無限は見れません。
見てるあなたも無限の一部ですから。これまでずっと対象を見ることに囚われてきたので、そのように見ずして見ることに不慣れだから一体それがなんなのかわけがわからないのです。
また、物事を思い出すときには状況と主体と対象と時間とをセットに記憶します。いつどこで私があの人を云々という風に。 しかしこの見ずして見る状況は見るものも見られるものもいつどこでも全て超越してます。なんせ無限ですから。だから記憶することもできません。
しかしそれを経験すると記憶不可能な記憶を越えた記憶として記憶されます。 本当にありありとそれを経験すると記憶不可能な記憶として深く意識に刻まれます。決して二度と忘れることはできません。その忘れ得ぬ何かにはまた帰りたくなります。
そのように恋しますがその恋は恋人に逢うのではなくあなたが恋人自身になることでしか成就できません。見ずして見る事のようにそれであることでしか逢う方法はありません。 無限には出会えないのです。
無限であることでしか。 無限とは在るものです。何かとしてではなく在ることです。
ではあなたは在ることがなかったことはあったでしょうか?
なかったはずです。
熟睡して夢を見てなかったときですらあなたは在ったはずです。 つまりあなたは一度も恋人と一つでなかったことはなかったわけです。
ときに額にかけた眼鏡を探す人がいるように、あなたは一度も失ったことがないものを探して様々な事をしてきたわけです。
だからもうヨガも瞑想もお経も呼吸法も止めましょう。 何かを探すことをやめてそのもので在りましょう。 何かで在ることも止めて、ただ在りましょう。
それが全てです。
おしまい。

1970年刀鍛冶の末裔として生まれる。
96年セントマーチン美術学校大学院生修士課程修了(ファッション、ウィメンズウェアーデザイン)
翌年ロンドンコレクションデビュー。タケオキクチのディレクター等を経て現在はビスポークテーラー。
元アシュタンギ、チベット仏教ニンマ派とゲルク派の各々の師に師事。
サーファー。